日東社 100年に向かう物語

第2章 貞三 ― 2代目 日東社を復活させ、マッチ業界発展に尽力した男 ―

1929年、日東社燐寸製造所閉鎖の翌年、
初代廣松の息子 貞三が除隊。
戦地から姫路に戻ってきた。

そこで貞三が見たのは、最大のピンチだった。

精力的に働いていたはずの父は重い病に倒れ、床に伏していた。

母方実家の養子に入った兄が、勤めていた銀行を辞め、
一人工場再開に向け奔走している状態だった。

その頃、わかったことがあった。

「海外資本に対抗するため」だったはずの、
山陽燐寸製造所の合併。
その背後には、海外資本があった。

それを知った貞三と兄は考えた。

合併した大手と同じことをしても勝てない

おれたちが生き残る道、
それは

広告燐寸(マッチ)

宣伝広告のためのマッチだ!

今は、マッチは「消費者がお金を出して買うもの」。

これを、「タダでもらえるもの」に変えよう。

企業の広告をマッチ箱に刷り込んだ、
企業も消費者も嬉しいマッチを作ろう!

1929年、貞三は、今も本社の立つ姫路市東山に小さな工場を建てた。
そして、マッチの製造を再開した。

兄は、マッチの販売会社を創業した。

弟が作り、兄が売る。

二人は、家庭用マッチの製造販売のかたわら、
「広告マッチ」という新しい製品を世に紹介し、
精力的に営業活動を行った。

広告マッチの需要は
年を追って増え、
全消費量の15~20%を
占めるまでになった。

1934年頃には、
約半数のマッチ業者が
この分野に参入した。

貞三は、広告マッチの同業者たちと、1934年に「平和会」
(平型燐寸和合会)を設立し、会長職を勤めた。

平和会は、東京市場に出荷される広告マッチを、
先駆的なシステムで協同販売する任意組合。

合併しなくても、大手に対抗するための
まとまり・数の力はもてる

1932年以降、海外資本が力を失い、そこに国内の別資本が入った。

販売合戦の中、大企業による合併が再び激しくなったが、
平和会は合併の波に対抗することができた。

平和会ができた同じ年、
のちの3代目、壬が誕生した。

喜びもつかの間、
時代は大きく戦争へと
傾いていった。

1937年、貞三は30歳で再び戦地に召集される。

自由経済から統制経済へと日本経済が変わり、
平和会も新しい共販会社に併合された。

戦局は悪化。
日本本土への空襲が多く行われた。

日本のマッチ工場の半数が戦災を受けた。

姫路も例外ではなかったが、
日東社はなんとか
難を逃れることができた。

貞三が姫路に戻れたのは1942年。

まだ戦局が有利であった頃のため、
マッチ製造の再開はそれほど経営を圧迫しなかった

そして、貞三の改革が始まった。

1945年、日本は敗戦した。

食糧難でひとの心は荒んだ。
流通の役割を担うのは闇市・・・
日東社を取り巻く状況は、大きく変化した。

そんな混乱の戦後。
マッチの灯りで復興の一助となろう

貞三は真剣に仕事にとりくんだ。

「消費者に満足していただける製品を造る」

それが日東社燐寸製造所 創業の精神。

軸木の材料が足りない?
今まで使っていなかった「松の木」の材を試してみよう。

工場を動かす電力が足りない?
ならば発電機を使おう。人々が眠る夜間に生産してみよう。

創意工夫の精神で、貞三はこの苦境を切り抜けたのであった。

そして1948年、マッチの配給規制が解除され、
自由な取引ができるようになった。

貞三はこれを期に「日東社燐寸製造所」を株式会社として改組した。

マッチ配給規制解除後、マッチ業界は戦前以上に回復した。

しかし、その一方、激しいシェアの奪い合いが起こった。

他社より少しでも安く
その争いにマッチの販売価格は大きく下落し、業界全体が混乱した。

これではいけない
貞三は各種の同業団体に参加。
先頭に立って政府に陳情し、
マッチ業界の安定に全力を注いだのであった。

その後も、貞三は広告マッチを扱う中小企業組合の理事長を
12年間勤めるなど、マッチ業界の発展に尽くした。

組合活動と並行して、貞三は日東社燐寸製造所の
近代化・量産化を推し進めた。

各種機械の導入で果たした、一貫生産による合理化。

そして、「経木のマッチ箱」から、
「紙のマッチ箱への転換という大改革。
この箱を変えることがマッチの近代化には不可欠
貞三はそう考えた。

当時のマッチ箱は「経木」でできていた。
木材を薄くシート状の削ったもので、
今でもまれに食品を包むのに使われている。

経木の箱、特に引き出しを機械で高速加工するのは非常に難しい。
貞三は、マッチ箱の素材を変えることで、
この問題を解決しようとしたのであった。

それに、広告マッチは企業の顔。
従来の経木の箱ではもう、現在クライアントが求める、
スマートな見た目を実現できない。貞三はそう感じていた。

「紙なんて経木の代用品」
そんな中傷もあったが、貞三は意に介さなかった。

もし紙製の箱が、経木の箱より前に存在していたなら、
誰も経木なんて選ばないはず。それが持論であった。

今までにないマッチ箱を作るには、
今までにない機械が必要だった。

機械の開発は困難を極めた。
経木より柔らかい紙の箱は、
これまでの方法ではぐしゃりと
変形してしまうのだ。

また、点火するための「横薬」の
塗りにも問題があった。

それでも、時代は紙箱のマッチだ
貞三は熱く関係者に語り、人々の心を動かした。

別業界などからも多くの人の助力を得、
そして、貞三はついに紙製マッチ箱の
製造機を完成させたのであった。

紙製マッチは「オーダーマッチ」と
名付けられた。

そして貞三は、
同業者にその技術を全て公開した

毎日のように見学者が訪れ、
オーダーマッチは爆発的に
業界に広まっていったのであった。

また、のちに貞三は「側貼自動製造機」も開発。
これも技術を惜しみなく公開した。

オーダーマッチは、広告マッチ黄金時代の基礎を築き、
量産体制整備の端緒となってマッチ工業の発展に大きく貢献した。

「あの機械の特許を取っていたらなあ、という気もするが、
皆が扱えるようにしたからこれだけマッチ業界が発展したんだ。
これでいいんだ」
のちに貞三はそう語っている。

その他、業界における価格調整などにも尽力し、
貞三は常にマッチ業界の発展を考えた。

時には、日東社マッチ製造所の利益にならなくても。

それは、57歳で病に倒れ、入院してからも続いた。

よりよい機械に改良できないか?

より合理的な生産方式は・・・

マッチを作るため、
マッチ工業を発展させるために
生まれた男。
それが大西貞三であった。

病床の父に代わり重責を負ったのが、
当時30歳の息子・壬(あきら)であった。

そして、新しい時代が始まった。

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